ののじの「糸そ〜めん削り」を使ってそうめんになった人参です。見た目がよくないのだけれどめっちゃべんり。
金曜日、帰りにずっと行きたかった焼きそば専門オーライさんに行く。 食べたかったシオとスを頂いてちょっとビールを飲む。 閉店後にすこしゆっくり話をしたのだけれど、会話するたびにどんどん好きになる。
土曜日、午前中の記憶がない。 夕方頃から動きはじめて演劇を観に行く。ちゃんと観るのは初めてで楽しみにしていた。 紅葉の季節だからかバスがぜんぜん動かなくて、買物をしてから行くつもりで早めに出たのにもかかわらずあわや間に合わないのではという状況になっていた。 ぎりぎり間に合ったけどトイレを我慢しながら観ることになってしまった。 内容はとてもおもしろくてけっこう長かったのだけれど、一瞬で終わったように感じた。 映画と違って、場の空気が変わったのが直で感じられて、影響を受けやすい僕は文字通り笑ったり泣いたりしてしまった。 とてもいい体験ができたのでまた観に行きたい。
トークセッションでゲストの人が「現代では演劇に対して真摯に向き合ってない、ここで批判が出ないのはおかしい。」ということをおっしゃっていたのだけれど、それはなかなか難しいと思っている。 (その後、めちゃくちゃ微妙な空気になったところを、演出の方が「提供側としても向き合ってもらえるように、真摯に向き合う必要がありますね。」という返しをしていてとてもうまく場をおさめられていた。) その場では当時の様子を比べて、現代ではという話だったのだけれど、当時は娯楽がほとんどなく、また歴史も浅かったので、観客の演劇に対する知識レベルがある程度揃っていた。 また、興味の対象としても上がりやすかったので同じ目線で会話がなされていたので、盛り上がりがあったのだと思う。 近代でいうと例えばちょっと前だと音楽のヒットチャートはみんな追いかけていて、その話は誰とでも出来たし、熱があったと思う。(この例は適当ではないかもしれないが。) しかし、現代では娯楽が多様化し、人の興味対象はそれぞれに散ってしまっている。さらにいうと歴史が積み重なり「古典」と呼ばれるものが出てきている以上、観劇に必要な知識が膨大になっている。 これらを知識を全ての人間が知っていて、また興味の対象としていると思うのはちょっと無謀ではないかと思うのだ。 これは穿ったみかたなのだけれど、批判ができない土壌として、きっと素人目線での批判をすると、「これはあの作品のこれのオマージュで」などと知識武装の反論が返ってきて口を紡がなくてはならなくなる。という空気を感じてしまっているというのがある。 実際に今回も唯一挙がった批判に対して、議論にもならず引用によって握りつぶされてしまっていた。そう返されるとこちらとしては何も言えない。 自分の分野でも言えるので反面教師なのだけれど、全ての人が自分と同じ土俵にいて、対等に語り合えるという前提で、批判がもらえないのは受け手側の姿勢のせいだとするのはおかしい。 まずは批判してもらえるような努力が必要なのではないでしょうか。もちろん観る側も観ているものについて知る必要があるのでお互い様ですね。 作中でも「難しい言葉で語っても伝わらない、伝わるように伝えると伝わる。」というような内容があって本当にその通りだと思ったし自分でも気をつけたい。
日曜日、ゆっくりする日というつもりだったのだけれど、思ったより寝すぎてしまって勿体無いという気持ちになった。 家事をしたり、本を読んだりして過ごしていたら一日が終わってしまった。
仕事から帰ってきた妻と飲み出したらいろいろ食べてしまって睡眠の質が下がるーと言っていた。