- 作者: 岸見一郎,古賀史健
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2013/12/16
- メディア: Kindle版
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さいしょに
なんかめっちゃ売れてそうな「嫌われる勇気」を読んだ。 実は出てすぐ買って読んでたんだけれど、仕事がおもしろくなって途中で読まなくなっていた。 仕事が一段落したので最初から読み直してみた。
目的
目的を決めて読もうということで、今回の目的を文章化しておく。
以下の2点を知るために読んだ。
- どうすれば人とうまく関われるのか
- どうすれば劣等感を払拭できるのか
概要
哲人は 「人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる。」 と説く。 この言葉をにわかには受け入れられない青年が、哲人との対話を繰り返すことで、アドラー心理学について学び、変わっていく。
この本は、アドラー心理学 (個人心理学) について、哲学者と青年の対話形式のなかで、さまざまな例を挙げながら説いている。
青年が読者の疑問をぶつけてくれることで、気になっていた点がどんどん明かされていき、過去の話題が再度蒸し返されることで、これまでの内容を思い返しながら新しいことを知ることが出来る。
人生の悩みはすべて「対人関係」によるものと書かれており、なるほどという感じだった。
この青年、劣等感(作中で劣等コンプレックスであることが分かる)の塊で、納得がいかないと哲人を罵倒してたりして、あまり良い性格ではない。けっこう嫌われているみたいだけれど、個人的にはとても共感していて、思っている通りのことを代弁してくれている。
トラウマなんかない
「結果論」ではなくて、「目的論」で考える。つまり、過去の出来事ではなくて、目的によっていまが決まっているのだという考えが説かれている。
「経験それ自体」ではなく、「経験に与える意味」によって自らを決定する
例えば僕が腹を立てたとすると、それは腹を立てることで何か別の目的を達することが出来るから、腹を立てたのだということだ。これは目から鱗が落ちた。たしかにそうだったのかもしれない。そうだと知っていると腹を立てなくても目的を達する方法を探すことが出来そう。
また、例えばトラウマがあって、あのトラウマのせいでこれが出来ないと思っていることがあるとする。これは「AのせいでBが出来ない」と言っているのであって、つまりトラウマを自分が出来ないことの言い訳に使っているんだと書かれている。これをアドラーは健全な劣等感ではないとし、「劣等コンプレックス」と呼んでいる。
また、こういった状態は「可能性のなかに生きている」とも表現されていて、いまに不満はあるけれど、この生き方を変えてしまうと未来の見通しが立ちにくくなるので不安だから、不安になるよりかは不満に耐える方を選んでしまっているのだと、けっこう手厳しい。
承認欲求はだめ
僕は、承認欲求を満たしたくてたまらない人間なのだけれど、アドラー心理学では承認欲求は駄目だとされている。
承認を求めることは、つまり他人の期待に答えるということで、それでは他人の人生を歩んでいることになる。そして、承認を期待して行動してしまうと、承認が得られなかったときに、相手に対してネガティブな感情をもってしまうという点も指摘されていた。
「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」
これは自分本位でも良いんだよという文脈で引用された言葉だけれど、つまりは承認欲求にとらわれてたらいつまでたっても自分の人生を生きられないということの戒めにもなる。
どうすれば人とうまく関われるのか
まずは対人関係をシンプルにしようと説かれている。
そのためには「課題」を分離するという方法が示される。「課題」とは例えば、子供が宿題をしないので怒る親の例が挙げられていて、「宿題をする」ことは子供の課題であって、親は宿題をしないことで子供が勉強についていけなくなることを心配するけれど、「宿題をする」かどうかの結果どうなるかも子供が自分で選ぶべきことなので、親が口を出すことではないとされている。青年は放置するのかと反論するが、子供が助けを求めてきたら、手を貸してあげる準備があるということを伝えなさい、それが課題の分離であると返される。
まずは、この課題は誰の課題なのかを考えて、自分の課題でなければ余計なことはしない。この分離が出来れば対人関係はかなりシンプルになる。
次に、他人を敵として捉えるのではなくて、仲間だと捉えるようにしろと説かれている。
しかし、ひとたび競争の図式から開放されれば、誰かに勝つ必要がなくなります。「負けるかもしれない」という恐怖からも開放されます。他所の幸せを心から祝福できるようになるし、他者の幸せのために積極的な貢献が出来るようになるでしょう。その人が困難に陥ったとき、いつでも援助しようと思える他者、それはあなたにとって仲間と呼ぶべき存在です。
一人でも他人を敵だと思って接しているうちは、競争にとらわれてしまって、結局のところ本当の意味での仲間は出来ない。全ての人を仲間だと思って接する必要がある。嫌だと思った相手でもその相手を競争している訳じゃないんだから、別に嫌なままでいいじゃないかと。相手がこちらと争いたいという目的を持って接してきても、そんなものは真に受けるだけ損である。たとえ相手を負かしたとしても、相手は復習にくる。これでもう競争からは抜け出せなくなる。嫌な相手でもあるがままに受け入れてしまおう。
嫌な相手については以下のようも書かれている。
いまの段階でいえるのは、逃げてはならない、ということです。どれほど困難に思える関係であっても、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけません。たとえ最終的にハサミで断ち切ることになったとしても、まずは向き合う。いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。
これはもう言い訳できようもなくて、僕のいつものパターンなので胸に刻んでおきたい言葉。
どうすれば劣等感を払拭できるのか
作中で劣等感については「誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いて行けばいい。」という方針が示されている。また「健全な劣等感とは他者の比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるもの。」とも言われている。
あの人はあれだけ出来るのに、あの人はあんなに幸せそうなのに、そんな風に他人と比較ばかりしていたら、いつまでたっても劣等感は払拭できない。他人は他人、自分は自分なのだから、ゆっくり前に進まばよい。
「理想の自分」があまりにも完璧すぎて、絶対に到達出来ないとギャップに苦しむこともある。いままではこれに悩んできたのだけれど、これは完全に「劣等コンプレックス」に陥っている。「理想の自分」を高く設定することで、今は理想の自分ではないから、うまく出来ていないんだという考え方になっているだけだったのだ。
大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである
いまの自分が何が出来るのかということを正確に把握して、それはそれで受け入れる。それから「理想の自分」を言い訳に使わずに、そうなれるように頑張る。その「勇気」を持つことで劣等感は払拭出来る気がする。
おわりに
最後にぐさりときた以下を引用してしめる。
受験生が「合格すれば人生バラ色になる」と考える。会社員が「転職すればすべてうまくいく」とかんがえる。しかし、それらの願いがかなったにもかかわらず、事態がなにひとつ変わらないことは大いにありえます。
これは赤面症の人を治療したとしても、またうまくいかなくなると赤面症に戻ってしまうという文脈で語られていて、赤面症という症状は対人関係でうまくいかないかもという恐怖から逃れるための言い訳として創りだした症状なので、それを直したところで結局また同じことになると言っている。 まずは、いまの自分を受け入れる「勇気」を持って、対人関係に取り組んでいかないと、永遠に転職を繰り返すことになってしまう。
「神よ、願わくば私に、変えることの出来ない物事を受け入れる落ち着きと、変えることの出来る物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」